3月11日 震災直後その1



今、振り返るとあっという間の一ヶ月でした。

ブログを書くことに、色々とためらいもあります。
我が家は家もあるし、皆元気ですから。

けれど、覚えているうちに書き留めておくことは
私にとっても子供達にとっても後々必要かなと思い
震災直後の一週間ほどを思い出そうと思います。

ご存知の通りこんな私ですから、できるだけ軽く淡々と。




3月11日  2時46分頃

この日、私は珍しく音楽もラジオもかけず
ただぼっーと一人で新聞を読んでいました。
ですから緊急地震速報を聞いていません。

カタカタと小さな音がし出した時、
あっ、地震だと思い椅子から立ち上がりました。

そこに神戸の母から電話。
電話の子機をもって、私は悠長にも食器棚を押さえに。

「今から大きな地震がいくらしいから、気ぃつけよ!」
「うん、カタカタもう始まってるよ。」


途端ぐらぐらと立っていられない程の揺れ。
あちこちからガッシャンガッシャンと凄まじい音。

電話の向こうにその音が聞こえているのか
「気ぃつけよ!」と母はひたすら繰り返します。

何を母に言ったのか、私は覚えていません。
これが後々親不孝の元になるとは・・・。


私の目の前には、北欧の黄色いガラス製の直径30cm程の
丸い照明がワイヤー一本でぶら下がっていました。
ダイニングテーブルの上に低めに取り付けられています。

それが180℃、半円を描くように右に左に大きく揺れます。
このワイヤーが切れて、私の頭に向かってきたら・・・


二時間サスペンスの冒頭部分で、頭から血を流して
横たわる無名女優の姿がなぜか浮かびました。
こんな時でもやっぱり私は関西人。

片手で照明を時々押さえつつ、食器棚も押さえつつ・・・


今思うとバカですね。


食器棚もテレビもリビングの棚も大きな家具は
耐震性の突っ張り棒や止め具でがっちり壁に止めてあります。

食器は割れてもその気になったら後でいくらでも買えます。
でも押さえにいっちゃうんです、主婦ですから。


後に母から聞いたところによると、
「キャー」という私の叫び声とともに電話が切れたそうです。

私の住む地域は、電気が通るまで
固定も携帯も公衆電話すら使えませんでした。

私の叫び声を聞いてしまったばかりに母はその後
眠れぬ日々を過ごすことになったのです。
一生分の親不孝をしてしまいました。
ごめんなさい。



本当に長い長い揺れでした。


最後には
「お願いですからもう止めてください」
と声に出して何度も何度も懇願していました。

ついに大きな揺れが止まりました。
大きく深呼吸をして、自分に渇!を入れ
まず水を溜めにお風呂場へ直行。

地震がきたらお風呂場に水を溜めるよう
子どもの頃から母に口すっぱく言われていたので
直ぐに体が動きました。

踵を返して、台所で飲み水を確保。
いつも浄水器で作ったアルカリ水をやかん二つには
常備してあります。
が、
絶対断水になると思ったので、
鍋にも水をどんどん溜めていきました。

けれど直ぐに土色の水に変わってしまい
飲み水はもう溜めることができません。

浴槽の水もすでにまっ茶。
しかしこれは気にせず、溢れる寸前まで溜めて蓋をしました。

水を溜め終わって一息ついた時に
急に涙と笑いがこみ上げてきました。
今まで無我夢中で全く気がつかなかったのですが
まるで100メートルダッシュをした時のように
ハァハァ息が上がっているのです。

ふと気がつくと、台所の床に飛び散っていた細々とした物が
全てカウンターの上に乗せられていました。

誰が片付けたの?
そう、答えは私。

短い時間の間に色々していたようです。
記憶にはありませんが・・・。


この間も大きな余震が時々あり、念仏のように
「お願いですからもういいです」
と繰り返しました。


さて、地元中に通う中学生の息子を迎えに行かなくては。

ご近所の同級生のママと一緒に行こうと思い
ダウンを着て靴を履き、ふと・・・
家事室に戻りマイバックに財布を入れました。